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「ハンストイン」参加及び終了報告

 投稿者:末延芳晴  投稿日:2018年12月25日(火)07時37分7秒 softbank126091120235.bbtec.net
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  報告が大変遅れて申し訳ありませんが、11月29日正午から第154回「9の日・9条・ハンストイン」に参加、翌30日正午過ぎに終了、さらに12月9日正午から第155回「ハンストイン」に参加し、10日の正午過ぎに終了しています。

この2年間、全力を傾けて取り組んできた『慶應義塾文学科教授 永井荷風』が、集英社の新書として今月14日に刊行・発売されました。

また、同じ14日の午後3時から、慶應義塾大学三田キャンパス内の北館ホールで、私と女性文芸評論家で『朝寝の荷風』の著者、持田叙子氏とハーバード大学大学院博士課程で泉鏡花を研究しておられるピーター・バーナード氏が講師として、さらに芥川賞作家で慶應義塾大学仏文科教授の荻野アンナ氏がコメンテーターとして参加、英文学部教授巽孝之氏の司会のもと、「永井荷風と慶應義塾」というテーマで講演会が開かれました。

私は、新著『慶應義塾文学科教授 永井荷風』の最終章「永井荷風が百年後の慶應に遺したもの」に絞って話をすすめ、「共鳴し合う永井荷風の空襲体験と原民喜の原爆体験」と「そして武器を捨てよ/人間よ」、さらに「終わりに」と、三つの小節を朗読して、講演を締めくく、そのあと、永井荷風の「非戦と平和」と「性」と「愛」の思想と精神が、20世紀の戦後と21世紀の今を生きる私たちの共同意識、あるいは願望とつながっているかを知ってもらうために、ジョン&ヨーコの「非戦」と「平和」のメッセージソング「ハッピー・クリスマス」と「性」と「愛」のアヴァンギャルド・ミュージックの映像と音楽を、ユーチューブからダウンロードして聞いてもらいました。

講演の最後で朗読した部分は、かなり長く、すでに本HPで紹介したものと重なるところもありますが、全文、以下に引用しておきますので、読んでみてください。

ちなみに、新著を詩人で「三田文學」理事長を務め吉増剛造氏に謹呈したところ、「原民喜のところが、稀有の一条の光のように目を射ております」という内容の葉書を頂きました。

本物の詩人が、ほとんどいなくなってしまった昨今、80歳に手が届こうという高齢にも関わらず、現代詩の最前線で孤軍奮闘する吉増氏からこのような言葉を頂けたことで、2年間、全身全霊を傾けて本を書き上げた苦労が一気に報われた思いがしております。

今日はクリスマスです。そして一週間後には新しい年がやってみます。ジョン・レノンとオノ・ヨーコさんは、「Happy X'mas」という曲のなかで、「War Is Over If YouWant It」と歌っています。

来年もまた、「戦争が終わること」を願って、私もまた、精いっぱい生きていこうという気持ちを新たにしています。

皆さま、改めて「ハッピー・クリスマス」と良いお年をお迎えください。

****************************

 新著『慶應義塾文学科教授 永井荷風』
 最終章「永井荷風が慶應に遺したもの」+「おわりに」から


 共鳴し合う永井荷風の空襲体験と原民喜の原爆体験

 荷風の直接的影響というわけではなく、ある種の結果的共鳴、あるいは呼応という形で、荷風が慶應義塾文学部のために遺したものとして触れておきたいのは、昭和二十(一九四五)年の春、荷風が、米軍機の空爆による未曽有の大空襲によって被災し、偏奇館を焼かれ、蔵書の全てを焼失し、着の身着のまま焼け野原をさまよったことと、それより五か月後の八月六日、昭和七(一九三二)年に慶應の英文学科を卒業し、詩や小説を「三田文學」に発表していた原民喜が、疎開していた広島市内の実家で、同じく米軍機による人類史上初めての原爆投下で被災し、家を焼かれ荷風と同じように着の身着のままで、焦土化した市内をさ迷い歩いたことで、二人が共に地球の終焉を思わせる地獄を体験したこと。そして、それぞれの悲惨を極めた体験・見聞とそのときに抱いた思念や感懐を、荷風は日記『断腸亭日乗』に、民喜はカタカナ書きの詩『原爆小景』や小説『夏の花』に書き残したことで、本人たちの意志を越えて二人がつながることである。

 永井荷風と原民喜は、原が慶應義塾大学文学部に入学したのが大正十三(一九二四)年と、荷風が慶應義塾文学科教授を辞任したときより八年ほど遅れているので、直接的師弟関係はない。また、生涯を通して、社会の周辺/底辺、あるいは外側に生きる芸妓や娼婦、私娼婦とのみ性的関係を有し、前述したように慶應義塾の文学科教授時代に、堅気の商家の娘と結婚したものの、新婚生活と同時進行で二人の新橋芸者との交情に溺れ込み、結局半年足らずで新妻を離縁。さらにそののち、新橋芸妓の八重次と再婚するものの、半年後に八重次が家出をし、結局離婚。以来一度も結婚しなかった荷風に対して、原は、見合い結婚ではあるものの、同じ広島県出身で、奇しくも荷風と同じ姓の永井貞恵という女性(のちに文芸評論家となる佐々木基一の姉)と結婚、深い愛の関係で結ばれている。

 しかし、原民喜をして、「私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた」(「死と愛と孤独」より)とまで書かせたその妻は、昭和十九(一九四四)年、糖尿病と肺結核で死去。それまで献身的に看病に努め、臨終を看取るなどして愛の関係を貫き、死後、貞恵との思い出を『忘れがたみ』、そのほか、いくつもの回想記やエッセイに書き残し、最後は先だって逝った妻に殉ずるようにして、昭和二十六(一九五一)年三月十三日、東京中央線の西荻窪と吉祥寺駅の間の線路に身を横たえ、自らの命を絶った原民喜は、人間的資質から文学者としての生き方、さらには書き残した作品から表出されてくる世界そのものも、荷風のそれとは百八十度違っている。

 にもかかわらず、「鎮魂歌」に詠われた「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」という、悲痛な決意と覚悟の表明は、東京大空襲によって「帰るところを失った」のにもかかわらず、明石、岡山へと苦難の疎開行を続け、悲惨な現実に「堪えて堪えて堪えてゆくことに堪え」て、『断腸亭日乗』を書き続けた荷風の決意と覚悟に通じるものであった。

 文学者が文学者たるゆえんが、そして文学者が人間に対して、あるいは人類に対して果たすべき使命が、この世に現出した地獄にも等しい悲劇を自身で体験し、冷徹、かつ透徹したまなざしで見据えた現実とその奥にあるものを言語によって書き残すことにあるとするなら、永井荷風と原民喜はまさにその使命を果たした文学者であった。少し大げさな言い方になるかもしれないが、日本民族を滅亡させたかもしれない二つの大惨禍の現場に、永井荷風と原民喜という慶應義塾とかかわりの深い文学者が、歴史に対する証言者として立ち会い、そこでの正に九死に一生を得るに等しい体験・見聞を後世に書き残してくれたことで、日本の文学は救われたといってもいいかもしれない。

 「そして武器を捨てよ 人間よ」

 前述したように、永井荷風は、慶應義塾の文学科で自身の教えを受けて、のちに文学者として立った教え子のなかで堀口大学を最も高く評価し、信頼していた。だが、その堀口大学は、戦前、戦時中に荷風に背く形で戦争翼賛の詩を詠んでしまう。そして、戦後、荷風が『断腸亭日乗』を書いて、時の政府や軍部、戦争の悪を徹底的に批判していたことを知り、痛切に恥じ、悔恨したはずであった。昭和四十五年十一月に作られ 昭和四十六年1月元旦、産経新聞に掲載された「新春 人間に」と題された詩は、正に堀口大学のそうした悔恨と自己批判から生まれた詩であり、本当に優れた詩は、人類社会の未来を予言し、私たち人間が進むべき道を「啓示」するとするなら、正にこの詩は、今日私たちが生きる日本の悲惨な現実を予言し、そのなかにあって私たち日本人が何をなし、いかなる方向に進むべきかを教えてくれる、正に天からの「啓示」の詩であるといえよう。

   新春 人間に

   分ち合え
   譲り合え
   そして武器を捨てよ
   人間よ

   君は原子炉に
   太陽を飼いならした
   君は見た 月の裏側
   表側には降り立った
   石まで持って帰った

   君は科学の手で
   神を殺すことが出来た
   おかげで君に頼れるのは
   君以外にはなくなった

   君はいま立っている
   二百万年の進化の先端
   宇宙の断崖に
   君はいま立っている

   君はいま立っている
   存亡の岐れ目に
   原爆をふところに
   滅亡の怖れにわななきながら
   信じられない自分自身に
   おそれわななきながら……

   人間よ
   分ち合え
   譲り合え
   そして武器を捨てよ
   いまがその決意の時だ

 精神という言葉の最も正しい意味で、永井荷風が慶應義塾に遺したものを、堀口大学の「新春 人間よ」の詩にならって言えば、「武器を捨て、性によって男も女も愛し合え、人間よ」ということに尽きると思う。そうした意味において、堀口大学は、詩人として一生をかけて歩んできた「長い道」の最後に近く、「新春 人間に」の詩を詠み、「そして武器を捨てよ、人間よ」と、全人類に向けて呼び掛けたことで、永井荷風の文学精神を最も正統的に継承する、ほとんどただ一人の門下生としての資格を獲得したことになる。

 おわりに

 「しなやかなラ・マルセイエーズ」

 文学者永井荷風は、最晩年に及んでは、前歯が欠け、シャープでモダンな風貌とダンディなファッションで装われた風采は無残に失われ、正に遠藤周作が、『新潮日本文学アルバム・永井荷風』に寄せた『「荷風ぶし」について」の最後の一節で、「晩年、歯が欠け、バンドのかわりに紐を使っていた彼の写真は恐らく本書にも掲載されているだろうが、そこには小説家、荷風ではなく、彼の文学を裏切った一人の老人のイメージがあるだけだ。年齢を取るのは実に悲しいことである」と嘆いたように、老残をもさらす形で晩年を生き、死んでいった。老残をさらして生きる最晩年の荷風について、「彼の文学を裏切った一人の老人のイメージがあるだけだ」という遠藤の指摘は、相当に冷酷で、意地悪く聞こえる。

 確かに永井荷風は、最晩年において老残をさらした。だが果たして、「書く」ことへの意志の最後の最後の一滴まで絞り切って、死の前日、『断腸亭日乗』に、「四月廿九日。祭日。陰。」と書き込み、老残をさらしたまま、死んでいったことが悲しいことなのだろうか? 歯が欠け、紐でズボンをくくっていた荷風の写真が、果たして荷風の文学を「裏切った」と言えるのだろうか……。

 一八七九年生まれの荷風より八十年遅れて、一九五九年にこの世に生を享け、慶應義塾大学大学院修士課程と、国学院大学博士課程を単位終了され、荷風と同じく慶應義塾文学部教授として後進の指導に当たり、また独身で生涯を終えた折口信夫の研究に携わるなか、中央公論社刊の『折口信夫全集』(新版)の編集に携わった持田叙子が、その著書『朝寝の荷風』の「あとがき」で記したように、小説家永井荷風は、齢八十歳になろうとしても、孤独な生との引き換えで「自由」であること選び、喜び、そして「老残」をも受けいれ、日記の最後に「四月廿九日。祭日。陰。」と記し、深夜、一人で絶息、冥界へと旅立っていったのである。

  朝寝ぼう。枕元にフランスの雑誌の散らかるベッドの中で、熱くて甘いショコラをすする荷風。きわびやかに化粧し装う女性を見て、自分もああなりたいと憧れてしまう荷風。買物籠にネギを入れ、時雨の中をとぼとぼと歩く荷風―だらしない? しどけない?情けない?そうかもしれない。けれど彼の生き抜いたのが、はじめは立身出征に狂奔する明治国家主義の時代、ついでは国民に強さの連帯を要求する軍閥政治の世であることを考える時、それはとてつもなく稀有で大胆なだらしなさでありしどけなさだと思うのだ。

 持田叙子は、このように荷風最晩年の「だらしなさ」と「しどけなさ」を「とてつもなく稀有で大胆な」ものとして受け入れ、そのうえで、「今、私にはそこからしきりに、人を押しのけ弱肉強食に突き進む日本近代社会への、第一級の抵抗の詩が聞こえてくる。荷風流のこのしなやかなラ・マルセイエーズにもっと耳を傾けよう」と、呼びかけている。

 荷風没後六十年が経とうとしている今、荷風の門下生の孫にあたるくらいの世代に、荷風が他界した昭和三十四(一九五九)年に、荷風と入れ替わるようにしてこの世に生を享け、長じては慶應の文学部に学んだ一人の荷風文学評論家、それも女性文芸評論家から、荷風の「だらしなさ」と「しどけなさ」が、このように優しく受け入れられ、掬い上げられていることを、私は、心から荷風のために喜び、祝福したく思う
 
 
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